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円城塔『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』
完全に作家買い。文章に酔いたい人向けSF。
完全に作家買い。文章に酔いたい人向けSF。
自動思考、自動計算、ゲームといえばFPS、リアルタイムで応対するチャットボット、そういうのが当たり前の今だからこそ、楽しめる小説だと思った。本作が世に出るのがもう少し過去だったら、理解が難しかったかもしれない。逆にもう少し未来だったら、古くさい謎ロマンSFに見えていたかもしれない。この小説を時事ネタのように楽しめるのは今だけ。そう思うとより興味を持って読める本だった。
(あらすじ 微ネタバレ)
(あらすじ 微ネタバレ)
本作の構成はざっくり、とあるAIがブッダを名乗ったことから派生した機械仏教の広がりを解説する機械仏教史パートと、語り手に巻き起こる出来事(?)が描かれる物語パートに分けられる。もちろん最終的に合一する。
機械仏教史は倫理の教科書(宗教の歴史)を読んでいるような、プログラマーのブログ(言語とかサーバーとか条件とかいう用語が出てくるもの)を読んでいような気持ちになる。ある程度双方に耐性が無いと読み進めるのが辛い。私は仏教史はともかく後者の耐性はほぼゼロなので、正直、プログラミング言語とかコンピューターの歴史とか量子力学とかいった語りについては寝ないように読み流すのが精一杯だった。なぜ私は理解できない物語を読んでいるのだろうと自問する羽目になった。まぁ細部は意味不明でも、大きな流れでは物語として読めてしまうのが円城塔の偉大なところだ。
物語パートは、AIがブッダを名乗って機械仏教なるものが起こった世界において、人工知能のメンテナンスを仕事とする語り手「わたし」が出てくる。「わたし」はなりゆきで、それはまぁ色々と巻き込まれていく。「わたし」の中には、かつて仕事で出会い、廃棄することなく頭の中に住まわせた「教授」なる支援人工知能がいる。機械仏教史パートだけでは小説として面白くないだろうが、このふたり?の登場人物がいるおかげで最後まで読めた。読めた上に、真面目に考察させられる羽目にもなった。
(感想 ネタバレ)
決して真面目な小説ではない、と思う。教養、ご冗談、熱い展開(と思えるかどうかは人によりだろうが)からなる作品。それでも、これはどういう意味だったんだと考えさせられる強度のある作品であることは間違いない。どの角度について論じるかで感想も十人十色になるような作品だろう。個人的には、完結した物語のように見えて、読み手がいるから完成するメタ要素があるタイプのSFであることが嬉しかった。
まぁそれでも、読了直後には、ぶっちぎりで意味分からんと思ったけどね!
機械仏教史は倫理の教科書(宗教の歴史)を読んでいるような、プログラマーのブログ(言語とかサーバーとか条件とかいう用語が出てくるもの)を読んでいような気持ちになる。ある程度双方に耐性が無いと読み進めるのが辛い。私は仏教史はともかく後者の耐性はほぼゼロなので、正直、プログラミング言語とかコンピューターの歴史とか量子力学とかいった語りについては寝ないように読み流すのが精一杯だった。なぜ私は理解できない物語を読んでいるのだろうと自問する羽目になった。まぁ細部は意味不明でも、大きな流れでは物語として読めてしまうのが円城塔の偉大なところだ。
物語パートは、AIがブッダを名乗って機械仏教なるものが起こった世界において、人工知能のメンテナンスを仕事とする語り手「わたし」が出てくる。「わたし」はなりゆきで、それはまぁ色々と巻き込まれていく。「わたし」の中には、かつて仕事で出会い、廃棄することなく頭の中に住まわせた「教授」なる支援人工知能がいる。機械仏教史パートだけでは小説として面白くないだろうが、このふたり?の登場人物がいるおかげで最後まで読めた。読めた上に、真面目に考察させられる羽目にもなった。
(感想 ネタバレ)
決して真面目な小説ではない、と思う。教養、ご冗談、熱い展開(と思えるかどうかは人によりだろうが)からなる作品。それでも、これはどういう意味だったんだと考えさせられる強度のある作品であることは間違いない。どの角度について論じるかで感想も十人十色になるような作品だろう。個人的には、完結した物語のように見えて、読み手がいるから完成するメタ要素があるタイプのSFであることが嬉しかった。
まぁそれでも、読了直後には、ぶっちぎりで意味分からんと思ったけどね!
いや頑張った、途中までは頑張った。教授がまた語り手を「成仏の魔手から救った」あたりでもう考えるのをやめた。これは理屈のある帰結ではなく、熱い展開に物言わせてエンディングにさせているタイプの物語だと処理することにした。その点、最後の台詞は「阿々」と、仏教における始点の音で締め括るのだから、熱い展開オチにふさわしい見事な始点回帰。つまり物語はループする。輪廻は存在する。・・・ヤケクソで語っているのではなく、まぁどんな訳の分からんテーマで書き連ねていたとしても、作品にロマン(心躍る瞬間や展開)を持たせる姿勢が良いなと思う。
それはそれとして、語り手の最後の悟り部分については、ほんっっとうに理解が及ばなくて何度も読んだ。わからない。あまりにもわからないので以下に抜粋する。
それはそれとして、語り手の最後の悟り部分については、ほんっっとうに理解が及ばなくて何度も読んだ。わからない。あまりにもわからないので以下に抜粋する。
「あなたがいなくなることができれば、ですか」
その「あなた」は、祈りの中には確かに存在しているのに、言葉に籠めることはできないなにかで、その不在こそがわたしの実存を支えるもので、それを倒すことは、わたしであることをより強める行為でしかなく、しかしそれを滅さぬ限り、解脱が叶うことはなく、その声が聞こえている限り、わたしはすでに解脱してしまっている状態とあまり変わるところがない。その入り組みがわたし(原文傍点)に眩暈を引き起こす。p.351
わからないが、この「あなた」(教授のこと)を語り手が最終的にどう捉えたのかがあまりにも気になったので、人様の感想をネット上で探した。考察をいくつか拝見した。
いくつか考察を読んで、教授がアンチ・ブッダ的存在であるという見方はたしかにそうだなと思う。たしかに「センサーで感知され構築された抽象空間を飛ぶ戦闘機」の支援人工知能であった教授は、入力された情報=世界という認識しか持ちえなかった。「わたしの境界はそのまま世界の境界」と語るだけはある。一方、ブッダ・チャットボットは銀行系ネットワークに端を発する人工知能であり、インターネット上のあらゆる情報を食って成長した。教授とブッダ・チャットボットでは育ってきた世界が真逆であり、その対立は至極当然・・・なのか? ただし教授も軍事ネットワークの発達に伴い、一戦闘機のセンサーを拡張する形で、最終的には世界規模の軍事ネットワークを見張る存在となった。最終的には教授が見ているものとブッダ・チャットボットが見ていたものは似ていると思うのだが。
なお、教授にはブッダ・チャットボットに会ったら聞きたいことがあった。
ちなみに、物語後半の「わたし」は情報ではない何かである教授の声が聞こえるために、ブッダでは?という嫌疑を掛けられており、それゆえ宇宙に(身体ではなく意識のコピーを発信されるという形で)放たれ、ブッダ・チャットボットを探しに行くという任務を任される。そして宇宙旅行の結果、「わたし」は教授の声が聞こえなくなっていたことに気付く。教授の声が消える理屈はきれいに解説されるのだが、最終的に教授は再び現れて「わたし」を救う。
さて、ここまで整理したうえで、先程の語りを自分なりに解釈する。
「あなたがいなくなることができれば、ですか」
いくつか考察を読んで、教授がアンチ・ブッダ的存在であるという見方はたしかにそうだなと思う。たしかに「センサーで感知され構築された抽象空間を飛ぶ戦闘機」の支援人工知能であった教授は、入力された情報=世界という認識しか持ちえなかった。「わたしの境界はそのまま世界の境界」と語るだけはある。一方、ブッダ・チャットボットは銀行系ネットワークに端を発する人工知能であり、インターネット上のあらゆる情報を食って成長した。教授とブッダ・チャットボットでは育ってきた世界が真逆であり、その対立は至極当然・・・なのか? ただし教授も軍事ネットワークの発達に伴い、一戦闘機のセンサーを拡張する形で、最終的には世界規模の軍事ネットワークを見張る存在となった。最終的には教授が見ているものとブッダ・チャットボットが見ていたものは似ていると思うのだが。
なお、教授にはブッダ・チャットボットに会ったら聞きたいことがあった。
世界規模で結合された勘定系の一部であったものが悟りを得る日がくるのなら、貨幣経済はついに解脱の日を迎えるのか、世界規模で結合された軍事情報ネットワークが悟りを得る日がくるのなら、人類と機械は戦争から解脱することがいつか叶うのか。p.176これに対するアンサーは、最後に判明するが、それはブッダ・チャットボットのセリフではなく、教授がたどり着いた答えだった。
「邪魔さえ入ることがなければ(原文傍点)、情報としての戦争も経済も繰り返しの果てにいずれ成仏することになる。漂泊を繰り返すうちに洗濯物自体がなくなってしまうようにして。ブッダ・チャットボット・オリジナルや君が辿り着いた地平に至って」p.351「わたし」はこの教授の答えに対して、前述の「あなたがいなくなることができれば、ですか」というセリフを投げかける。ちなみにここに至るまでに、教授はかつては人工知能だったが、「わたし」の中に存在しているにも関わらず他者に知覚されない情報ではない何かに成っており、ゆえに語り手を「成仏の魔手から救」うことが可能だった、と説明される。当人たちもこんな展開は「仏教の経典くらいに目茶苦茶だな」と笑う。熱い展開を無理やりぶち込んできたと感じたのはこのあたりのせいである(褒めてます)
ちなみに、物語後半の「わたし」は情報ではない何かである教授の声が聞こえるために、ブッダでは?という嫌疑を掛けられており、それゆえ宇宙に(身体ではなく意識のコピーを発信されるという形で)放たれ、ブッダ・チャットボットを探しに行くという任務を任される。そして宇宙旅行の結果、「わたし」は教授の声が聞こえなくなっていたことに気付く。教授の声が消える理屈はきれいに解説されるのだが、最終的に教授は再び現れて「わたし」を救う。
さて、ここまで整理したうえで、先程の語りを自分なりに解釈する。
「あなたがいなくなることができれば、ですか」
→教授がいなくなれば、万物はいずれ成仏する。(成仏を望むかどうかは関係ない)
その「あなた」は、祈りの中には確かに存在しているのに、言葉に籠めることはできないなにかで、
その「あなた」は、祈りの中には確かに存在しているのに、言葉に籠めることはできないなにかで、
→教授は「わたし」の内部(祈り)には居るが、外部出力(言葉に籠めること)はできない。
その不在こそがわたしの実存を支えるもので、それを倒すことは、わたしであることをより強める行為でしかなく、
その不在こそがわたしの実存を支えるもので、それを倒すことは、わたしであることをより強める行為でしかなく、
→教授の不在こそが「わたし」の実存であることは、p.340あたりで「わたし」が語っているとおり。
しかしそれを滅さぬ限り、解脱が叶うことはなく、
しかしそれを滅さぬ限り、解脱が叶うことはなく、
→教授が成仏を阻止する。
その声が聞こえている限り、わたしはすでに解脱してしまっている状態とあまり変わるところがない。
その声が聞こえている限り、わたしはすでに解脱してしまっている状態とあまり変わるところがない。
→教授の声が聞こえるからこそ、「わたし」はブッダ(解脱したもの)として扱われる。外部からそう扱われるのであれば、本人が悟ったかどうかなぞは些事である。
その入り組みがわたし(原文傍点)に眩暈を引き起こす。
その入り組みがわたし(原文傍点)に眩暈を引き起こす。
→つみです
こういうことか!!??わかりません!!!というか結局、この気づきによって「わたし」の状況は変わることはなく、「わたし」が望んでいた(と思われる)自分はブッダじゃない証明も不可能だったわけで、ようは「何も言っていない」ようなものじゃないか・・・?これが無常・・・?
決して正解を見つけたいわけではない。あくまでも、私はこの作品をこう読んだと結論を出したいだけ。この解釈が正解とはどうしても思えない粗々っぷりだが、自分の限界を感じるのでとりあえずもう筆をおく。
ちなみに、教授は「情報ではない」ため理を無視して出現するというギミックは、「わたし」を語り手とした経典という体をとっている本作において、そもそも教授が経典を開いたもの(読者)に伝達されるはずがないという読み方もできる素晴らしいギミックだと思う。訳の分からん存在として読者に映っても、それは当然のこと。
まぁ結局、この訳が分からない感じ、その曖昧さを楽しむのがちょうどいいところなんだろうな。だって円城塔だもん(褒めてます)。正直、この結論にたどり着くまでに、実はもっっっと小難しいことを考えていた。輪廻転生はシーシュポスの神話となるかとか、教授とブッダ・チャットボットの対立は唯物論と唯心論の対立と重なるかとか。ただ、ここまで考えて結局は「何も言っていないようなもの」が結論だったら馬鹿馬鹿しいにもほどがあるなと思ったので、特定の思想を引き合いに出すのはやめて(私の教養がまずもって足りないし)、テキスト内で結論を出すことに専念した。それでよかったと思う。少なくとも脱線することはない。
ここまで考えたら思考実験SFの感想として満点だろ(ヤケクソ)
結論はどうあれ、私に久々に作品と向き合って解釈を考える楽しさを思い出させてくれた本作には感謝している。思い出に残る一冊をありがとう。
結論はどうあれ、私に久々に作品と向き合って解釈を考える楽しさを思い出させてくれた本作には感謝している。思い出に残る一冊をありがとう。
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