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落ち込みがちな時期。
なにひとつ上手くいかないなと、暗い気付きが全身に蓄積する。
うまく生きていけていない気がする。
人間を十分に演じられていない気がする。
もっとうまくやらなきゃ、自分はダメな奴だという妄想に取りつかれる。
今日も今日とて、色々やらかした。
時間配分が甘くて時間を持て余したり、うまくコミュニケーションが取れなくて最低限の会話しかできず勝手に落ち込んだり、来客対応が不十分であとから確認しておけばよかった事項がバラバラ出てきたり、急いで印刷しなきゃいけないものを何度も間違えたり。
そこへ加えて、最近の悩み。
休日は何もやる気が起きなくて寝てばかり。病気を疑うレベルで何も手につかない。家にいると本当に何もしないので、買い物に行ったりボーイスカウトに行ったり無理やり行動せざるを得ない予定を入れるけど、入れたら入れたで予定があることがストレスになる。かといって他にしたいことがあるでもない。地獄。
平日は働いている。残業は結構多い。残業代がちゃんと出るので働く環境にストレスは無い。それでも、今日みたいにうまくいかない日はあるし、さすがに自由な時間が欲しいなと思うときもあって、なかなかまだまだ精神がしゃちくになれない。いつも真面目でストイックな先輩も、私みたいに自分のことで悩んだり立ち止まったりすることがあるのだろうか。想像つかないな。
最近あった一番楽しかったことが「めっちゃ面白い夢を見た」なのがもう絶望である。いや面白い夢は別にいいんだけど、度が過ぎると現実より夢の方が楽しみになってしまって生きるのが辛くなるので本当にキツい(実体験)。
一応日々を面白くしようと努力はしてる。
でも読書は5分に1回寝た。耐えて耐えて1冊読み切ったが二度と読まないと思う。ゲームは最近寝食を忘れてハマったものがあるが、一定のレベルに達して速攻で飽きた。バイクは最近のツーリングで渋滞に巻き込まれて死ぬほど疲れたのでしばらくは遠慮したい。いい感じの刺激が無い。
そもそも「やりたいからやる」のではなく「日々を面白くしたいから頑張る」というのも、段々と「努力してまで面白いものを見つけないといけないの?努力しないと面白いと思えないの?」と頑張る意味を見失って憂鬱になるので危険である(実体験)。
こんな感じで「生きるの向いてないな…」と思い詰めていたのだが、ふとテレビに映った一般人の生活感や日常の話を眺めているうちに、「生きるのに刺激は必須では無くね?」と思った。自然体が一番じゃんと思った。やっぱりもう心のどこかで、人生は楽しくあるべきで、適度な刺激と適度な行動力が必要で、楽しいことが無いのなら自分から探しに行かなければならないと思い込んでいたんだろうなと思う。もちろん退屈を潰せるのならそれが最善だし、自分のこうやって何かしら手を出してみたくなる性分は嫌いではない。でも、対処法が常に正解とは限らないんだろう。
なにもしないこんな夜を、「今日も何もしなかった。時間を無駄にした。自分はダメな人間だ」と嘆く必要はないのかもしれない。
嫌なら行動すればいいのに出来ないジレンマから抜け出せない自分は嫌いだけど、認めてあげてもいいんじゃないって思ったら少しは心が軽くなった。どうせ今悩んだってできることは特にない。少しでも建設的なことがしたいなら、とっとと寝て解答を明日にゆだねるべきだ。明日になったら、見えている世界が変わるかもしれない。そう信じて、寝てみよう。
復帰後もなんとなく体調不良だったしメンタルも落ち込んでいたので、思い切って髪を切った。それはもうバッサリと。これでこの夏に染みついた悪い気を落として、心機一転仕事も休暇もバリバリやっていくつもりだった。実際、髪切った直後の信州旅行は楽しかった。
それが復帰して2週間も経たぬうちに、今度は別の家族が陽性を引いた。
私は「コロナ明けなのに旅行に行くなんて信じられない。行くなら帰ってきてしばらくは家の中でもマスクして食事は別で取りなさい」と家族に言われながら旅行に行っていたので、ここ1週間は対面で食事どころか面と向かって会話したこともない。それでも「同居家族は原則、濃厚接触者」という無慈悲な定義には逆らえず、涙を飲んで職場に連絡を入れた。
運は早々好転しないようだ。
ようやく文字が打てるようになった。ヤケクソな気持ちが起因していたのか、生来の救えない自堕落のせいなのかわからんが、しばらく何をやる気もなかったし、何に集中することもできなかった。それでも「EGOISTの歌が好きだから1期くらいは見とかないと…」とサイコパス22話観たのだけは褒めてもらいたいかもしれない。観たというか、再生をクリックしたら後は画面から目を逸らさないよう耐えていた、という方が正しいかもしれない。平時ならこのアニメを面白いと思ったのだろうけど、こんな状況下では物語を楽しむことよりむしろ、「見終える」ことだけが重要だった。本を読み切らない、アニメも見切らない、ゲームも積みがちな私には、「面白い」と思うことより、「最後まで追いつく」ことが何より重要だ。そのくせ、今のような時間を与えられた状態になると、「何か功績を作らねば」と思い詰める。別に新しい料理に挑戦したとか、短編をひとつ書いたとか、イラストを描いたとかで十分なのだが、物語に集中できない奴が創作などできるはずもなく、最低限の妥協案として「物語を消費する」が浮かび上がり、その最低限の妥協案を自分に課した結果、サイコパス1期一気見というところに落ち着いたのだった。いわば義務。
信州は上田を中心とした友人との二人旅行。
その備忘録として日記を残す。
1日目、新幹線を乗り継いで上田で合流した。
北陸新幹線に乗るのも、グリーン車に乗るのも、新幹線で東京より遠い場所に行くのも初めてだったので、ドキドキしたし、たった半日でこれだけの距離を移動できることに驚いた。
土曜日で夏休み期間ということもあり、私が乗った北陸新幹線は指定席すべて完売という盛況っぷりだった。殆どの乗客は軽井沢で降りた。景色は地元からずーっと曇天で、軽井沢もすっきり晴れていれば素晴らしいアクティビティが楽しめただろうに、お互いついてないですねなんて勝手に思っていた。だが、軽井沢のトンネルを抜けた途端、天気は一転。雲は薄くなるわ青空が見えるわで、先程までの曇天は山の向こうに置いてかれた雲だったんだなということがよくわかった。さすがに笑った。幸先が良いにも程があるだろ。
上田は暑かったが、上田城に歩いて行くことはできた。
昼食は上田城の近くでお蕎麦。今回信州に行くにあたり、目標としていたのが「くるみそばを食べること」だった。くるみのペーストをざるそばのつゆに溶かしたもので、上司におすすめされて以来、ずっと食べたいと思っていた。上田の蕎麦は細麺で柔らかめ、そうめんみたいに透明度が高かった。そんな蕎麦に、くるみペーストのつゆが、めちゃくちゃ合う。冗談抜きでここ1か月で食べた何よりも美味いと思った。くるみのコク、うまみ、めんつゆの塩味、ペースト(味噌と砂糖か何かを和えている?)の甘み、それらすべてが一体化して蕎麦のつるんとした食感に集約される。食べやすい上に美味い、最高。感動しすぎておみやげコーナーでくるみ胡麻和えの瓶を買った。これで家でもくるみそばが食べられる。ここだけで上田に来た甲斐があったと喜んだ。
その後、街ブラして、適当に入った喫茶店が思いの外レトロで静かで良い雰囲気だった。外の喧騒が遠くなる静かで薄暗い店内、革張りのソファ、グラスを磨く店主、カウンターで話し続ける常連さんたち、ほんのり漂うたばこの匂い・・・メロンソーダフロートを飲みながら、「こういうのがいいんだよ・・・」と雰囲気を噛みしめていた。オープンで明るくて賑やかで華やかなお店もいいけれど、また来たいと思えるのはこういう店だ。
2日目、レンタカーを借りて遠出した。
レンタカーを利用するのが初めてで「事前予約する」という概念がすっぽ抜けており、前日の夜に初めて「もしかして予約してないと利用できないもの??」と気付いた。さすがに前日の夜中にネット上で予約は出来ず、仕方がないので朝イチで直接電話。すると「ご用意できます」とのことだったので、お店の人と奇跡に感謝した。本当にありがとう。
目的地は北八ヶ岳。上田からは車をかっ飛ばしても1時間はかかる。我ながら上田を拠点にしているとは思えない目的地だとは思うが、ロープウェイを利用した標高高めの登山がどうしてもやりたかったんだから仕方ない。自分一人が楽しむだけの登山だったらもっと近くの山でも良かったかもしれないが、今回ついてきてくれる友人にはぜひ、森林限界の世界を歩く楽しさを知ってもらいたかった。「山の上にこんな幻想的な世界がある」ってことを知って欲しかった。ロープウェイはどうしても譲れなかったんだ。
快晴とは言い難い天候だったものの、雨には降られず、時々晴れ間が見えるくらいの、日光に邪魔されない、登山に適した天気だった。ロープウェイ到着駅から片道1時間30分程度の本当にささいな登山だったけど、「登るのは大変だったけど、楽しかった」と言って貰えただけで、今回の旅行は個人的大成功だったなと思う。私はというと、ホテル隔離期間中、外の空気が吸えなかったのがずっと嫌だった反動で、登山中は「空気がうまい」ばかり言っていた。だって本当にうまいんだもん。標高が高い世界の空気は、切なくなるほどうまい。
上田への帰路、レンタカーで夕立があったであろう地域を横切った。道路は濡れ、山の麓からは霧が立ち上っている。周囲は田んぼだらけの開けた土地だった。友人は登山が疲れたのか、助手席で寝ていた。この子が底抜けの晴れ女であるお陰で、私たちは雨に降られることなく今日も楽しむことができたんだろうなぁなんて考えていた。雲が切れて西日が射す。山の麓にくっきりと虹が現れ、運転中だというのに目を奪われた。虹の端から端まではっきり投影されている。それは「虹の麓には宝が眠っている」ってお話を信じたくなるほど幻想的で、でも車を停めて写真を撮る訳にはいかなくて(レンタカーの返却時間が迫っていたので)、ただ横目で見て焼き付けるしかなかった。ラジオもつけていない静かな車内で息をのんだ。その瞬間のことを鮮明に覚えている。
3日目、遅くならないうちに帰ることしか考えていなかった。まさにノープラン。
とりあえず帰りの新幹線の切符は用意したものの、出発時刻まで暇になった。
何をしようか考えながら駅前をフラフラして、偶然見かけた「信濃国分寺」の写真を見て近そうだし行ってみようかと思い立って、経路を調べたらちょうどバスの時間が数分後。バスに乗ってたどり着いたお寺は想像以上に広くて手入れが行き届いていて清浄で、偶然にも今日は境内にある三重塔の内部公開日(しかも中に入れる)で、境内や裏手の畑にたくさん咲いている蓮の花の見頃でもあり、鐘楼も塔に登って鳴らしてOKの日で、「いや盛りすぎでは???」と軽く混乱した。
その上、境内には人はまばら、蓮の畑を見に来ている人も全然いない。いやいや、その辺のひまわり畑には呼ばなくても人間がワラワラと集まるのに・・・。いくら月曜日だからって、このレベルのお寺が「穴場」だなんて信じられなかった。でもその地元にのみ見守られている感が「尊い」とも思う。紹介したいけど人に教えたくないお寺ナンバーワン・・・!!
この信濃国分寺で最初に感じたのが、「梵字を使っているお寺って珍しいな」だった。国分寺という歴史の重みが、そんじょそこらの寺社仏閣とは格が違うことを物語っているのだろうか。歴史のことはよくわからないが、異国情緒(しかも1200年モノ)を感じられる独特な雰囲気に「こういうの好きー!」と思わずにはいられない。普段寺社仏閣に行っても御守り等は買わないようにしているのだが、信濃国分寺にはありがたい思いをさせてもらったし、なによりお札が独特で記念に欲しいなと思ったので買った。購入する時に住職さんらしき人がサンスクリット語っぽい呪文をかけてくれたのが嬉しかった。御祈祷みたいで。やはりこの国分寺、節々にインドやシルクロードを感じる・・・。
あと単純に景色が最高だった。夏の強い日差しと青い空、これほどものを撮るのに適した時節が他にあるだろうか。蓮の花の華やかさも、社殿の荘厳さも、夏というフィルターが魅力を何倍にも増幅させてくれる。とにかく写真を撮るのが楽しかった。カメラロールは宝物でいっぱいだ。
北陸新幹線の帰り道、「どうせなら人生で一回は高い席に乗ってみたい」と、グリーン車より上のグランクラスを購入。たしかに広いし静かだし座席も多機能だったのだが、あまりにもリラックスした姿勢に座席が傾くため、列車内とは思えなくなり、脳がバグって列車の揺れに酔った。課金したら酔うなんて貧弱すぎるが、庶民には合わないものだったんだろうな。今後は買うならグリーン車までで十分だと心に誓った。
そんなこんなで自由気ままな3日間を過ごし、今に至る。
やりたいことをやりつくした、これ以上ないくらい自由な旅だった。数日前までホテル隔離生活を送っていたせいもあり、自由に動き回れることが本当に楽しかった。今後も体力が続く限り楽しみたいから、健康でいよう、体力をつけようと思った。そして一人じゃできないこと、楽しめないことも多々あったと思う。付き合ってくれた、一緒に楽しんでくれた友人に感謝を。そしてまたいつか同じように旅行しよう。
「あれは本当に良かったなぁ」と噛みしめるような思い出がいっぱいの素敵な旅行。
思い出を胸に、これからも楽しく生きていこう。
出かけるのにスマホよりも持っていくのを優先したのはSwitch(FE風花雪月に心酔してた頃)以来だった。しかも「車を運転しなきゃいけないけど信号待ちですら読みたいから持っていく!!!!」という意思だった。危ないですね。でもそこまでして先を読みたいと思えることが、なんか素敵だなと思った。たとえ好きなシリーズでも、作品を吸収するのが義務のように思えてきてそんな自分と葛藤しているような私でも、まだ、「読み耽る」情熱があったんだ。。
高校時代、倫理を選択してた。倫理をわざわざ選んでいたことは覚えているんだけど、倫理じゃないほうの授業が一体なんだったのかは思い出せない。政経か?歴史と現社は必修だったはずだし…。ただ、倫理じゃない方の授業を選んだ友人に「あんたはやっぱ倫理かー。内側の世界を見る学問って、あんたっぽいもんなぁ」と言われたことを覚えている。その時胸が痛くなったことも。
それから受験も倫理を選んだけれど、全然ダメだった。どの思想を誰が言ったとか、いつの時代になんの主義が注目されたとか、そういうのが全然覚えられなかった。今思えば、暗記よりも理解を優先すべきだったんだろう。少なくとも自分で選んだという覚悟があったから、ほかの教科よりは勉強していたと思う。それでもセンター試験の結果はボロボロで、模試の時に受けたほぼ満点の現社のことを思い出して、「勉強の上では私は絶対現社のほうが向いていたのに、なんで出来の悪い倫理で勝負してしまったんだろう」なんて思った。
後悔ばかりの受験期を越えて、大学にて、好きだなと思った授業は「文学」「哲学」「言語学」…。高校時代に倫理をかじっていてよかったと……思った回数はそんなにないけれど、私が倫理を選んだのは、私が学びたかったからなんだろうなぁ……という確信を深める一助にはなった。教養として知りたかったんだよね。受験勉強の効率より教養を優先するところ、社会人になった今なら笑えるかな。
という自分語りがどうしても多くなるので、今回の話は感想文ではなく日記である。
倫理が自分にとって少し特別な授業だった。だからタイトルに惹かれた。ネットで1巻丸ごと試し読みして、主人公の先生(の見た目)があまりにも魅力的なところに堕ちた。人間の内面の話が主軸に進んでいく(誰が何をする、何が起こるという事象のみの発展より対話が多い)のがよかった。基本的に事件は1話完結、長くても3話程度で終わるのがよかった。
まぁとにかく、主人公の先生がやたらと好き。
影のあるイケメンがタバコ吸ってる構図がとても良い。服装があんな感じなのも良い。陽の気がまるで無いのに、どの先生よりも優しくて温厚なのが、なんか、先生のイメージを覆していてとても良い。だから先生に想いを寄せる女子生徒の気持ちもよくわかる。恋を応援していた。女子生徒が卒業式のあと告白するシーンはかなりドキドキした。「成就してほしい!先生ぜひ手を取ってあげて!!!」と思う気持ちと、「いやでもこの先生がふつーにOKするか??」と拭いきれない疑いがひしめき合う中、その後の展開を読んで情緒がぐちゃぐちゃになった。運転中じゃなければ枕に顔うずめてジタバタしていた。
倫理を扱う、人の内面を扱う作品って、どうしても明るい笑える漫画にはならない。それでも読む手を止められない、読むのが苦痛じゃないと思うのは、もちろんこの漫画が素晴らしく面白いのは大前提として、私が内面の世界を考えるのが好きなんだろうなと…少しだけ、思います。
先生が「悩みのない人には興味が無い」的なことを言うんだけど、それはそれで共感できるなと思った。暗いことを本気で考えたことのある人にしか開けない心ってあるよね。悩みっていうのは自分でしか戦えない。この漫画の中の生徒たちは、みなそれぞれ悩みや闇を抱えていて、先生は導くための言葉をかけてはくれるけど、戦うのは自分自身。個人的な戦いの短編集。そんな構造がまた、読んでいて面白いのかもしれない。他人との駆け引きよりも、この困難に対してこの個人がどう戦うのか、何を思うのか、そんなことが気になる孤独な人間だから。
仕事が忙しいから、自由な時間を作るのは疲れるから、映画も小説も動画もなかなか手が出せない今日この頃。だらだらとスキマ時間を浪費するだけだったけれど、この漫画が素敵な娯楽を与えてくれただけで、退屈から救われた気がした。
バイクではるばる230キロ、峠をいくつも越えて目的地へ。
車も人も通らない田舎道を、初夏のすっきり晴れた日にのんびり走る。こんな贅沢があるだろうかという気持ちで、満たされながら走った。途中、ブレーキランプがついてないと見知らぬ人に指摘されて修理に立ち寄ったり、道に迷って何度も現在位置を検索したりしたけど、基本的には不自由なく幸福に北へ向かった。
すべてがひっくり返ったのが、2日目の朝。
標高1700m級の高原を貫く国道40号、通称ビーナスライン。ここをバイクで走るのが夢だった私は、意気揚々とホテルを出て山を登った。視界がすぐに開け、広すぎる空に、まだ雪の残る山脈が遠景に現れる。早朝で交通量もまばらな夢の道、走り抜ける気持ちよさに酔いしれた。
あまりに景色がいいのでバイクを停めて写真を撮りたくて、砂利の路肩に乗り上げようとしたところ、スピードを出し過ぎたのか、地面の凹凸にバランスを崩して思いっきり転倒。砂ぼこりで真っ白になりながらなんとか立ち上がって、空回りし続けているエンジンを切って、バイクを起こした。ボディは傷だらけになってしまったが、自立するし、エンジンもちゃんとかかる。安堵し、乗ってみようとするも、何かが違う。よく見るとハンドルの角度が違う、ギアペダルが変な方向に曲がって踏めない……。やばいかも、と思って手持ちの道具でどうにか乗れる状況にできないかと手を尽くしてみるが、ハンドルやペダルどころか、ミラーの角度すら変えられなかった。ソロで行動しているのに部品の1つも面倒が見られないのかと、自分がバイクに対して何の知識もないことを思い知らされた。
バイクの保険でレッカーサービスがついていたことを思い出し、諦めてレッカーを呼んだ。保険会社が手配してくれて、現在地を伝えて、待つこと1時間程度。高地で涼しいとはいえ、雲一つない晴天のもと、木陰すらない世界に取り残されるのは、まさに陸の孤島って感じだった。すぐに山を下るつもりだったので、水一本すら持っていなかった。上着のフードを被って日除けにし、なるべく口を閉じて座っていた。目の前に広がるのは雄大なアルプスと富士山。どんな気持ちで見つめていればいいのか分からなかった。
メンタルは鬱と開き直りを繰り返していた。落ち着かなかったことだけはたしかだ。バイクで風を切るなんて、自分には過ぎた娯楽だったのかもしれないとも思った。私はもっと地に足付けた娯楽の方が似合っているんじゃないかな、なんて。それでもバイクでここまで来た自分を認めたい気持ちもあり、ぐるぐると、考え込んでいた。
その後は空元気でいたと思う。
レッカー車に同乗して山を下り、バイクを最寄の業者に預けて、鉄道で帰宅した。開き直って駅弁もお酒も買って、快適な列車の中で飲み食いしてたけど、ふとうたた寝から目覚めてみると、なんだか夢から醒めたような、いきなり現実を突きつけられたような苦い気持ちになった。暑かった。どうにか私は家に帰ってこれたけど、置いてきたバイクのことが気がかりで、帰ってきた感が薄かった。やはり思考はぐるぐるしていて、「破損したわけでもないし、あの程度でレッカーを呼ぶのは情けなかったかもしれない」「無理やりペダルを曲げれば気合で乗って帰れたのでは?」「あの程度を自分で直せないのにバイクで遠出なんて、恥さらしもいいところだったかも」「そもそもバイクで無理やり遠出して、体力的にも精神的にもつらいのに、私は自分を苦しめて何がしたかったんだろう。こんなの誰に言っても共感してもらえない。無謀で、得もない、その上満足に遂行もできないなんて……」……などと、落ち込む理由には困らなかった。
さすがに「もう旅をしたくない」とまでは思わなかったけど、落ち込む自分を救い上げる手段がなかなか見つからなくて、長旅の疲れも暑さも相まって、落ち着いてはいられなかった。そんな中、帰宅して、ちょっと買いたいものがあり、車に乗って出かけた。
車内で聴いたのがこれ、「Good Morning, Polar Night」
「どこまで行けるか答えも知らないまま
歩けるお前だからこそ 星明りも映るだろう」
あぁ、旅の目的はこれだったんだ、と胸がいっぱいになって、涙が出た。
私が家を飛び出したのは、観光のためでも癒しのためでもなかった。一人でたどり着けるかどうか自分を試したかった。冒険に挑む自分を好きになれると思った。挑戦する思い出を増やしたかった。ただ出来る限り遠くに、出来る限り自分の力で、歩いて行きたかったんだ。
そんな幼稚で、無謀で、果てしない望みを、まるで尊くて素晴らしいもののように肯定してもらえて、救われた気がした。原初の動機を思い出させてくれた。こんな願いを抱いている私だからこそ、見えるものがあるんだろう。美しいと思えるものがあるんだろう。挑戦すること自体に価値があったんだ。自分を認めてよかったんだ。私は、私の期待にちゃんと応えたんだ。
また旅に出よう、と思った。
時々うまくいかないくらいの方が、案外、やりがいがあるかもしれない。
手に負えなくても、身の丈に合わない目標でも、途中で折れてしまっても、辿り着くことを夢見て挑戦することは、きっと私を豊かにしてくれる。そういうのを積み重ねて、少しずつでいいから、強くなれたらいいな。きっと未来から見たら、今こうして泣いて笑っていることも、夢のような気がするんだろう。
また次の旅まで、おやすみなさい。